私の思いのカテゴリ記事一覧

霊場巡り旅ブログの旧ブログです。2018年5月上旬までの記事があります。

カテゴリ:私の思い

  • 2011/04/01私の思い

    慈悲は仏教における最も大切な教えの一つです。似たような言葉に「慈愛」という言葉がありますが、何故、慈悲には「悲しみ」という字が含まれているのでしょうか。月刊致知4月号に次の文章が掲載されていました。 大きな悲しみというのは、大きな優しさにつながっていると私は思うんです。それを仏教では「大慈大悲」といいますが、明恵、道元、親鸞、法然…、皆そうですよ。少年の日にそういう大きな悲しみに出合っているんです...

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  • 2011/03/18私の思い

    今日で地震が発生してから一週間が経ちました。余震による揺れを感じるととても不安な気持ちになります。また計画停電により、普段の生活とは異なった生活をしばらくは続けなければなりません。しかし、弱気になるのではなく、出来ることを一生懸命がんばっていかなければと思います。「霊場巡りの旅ブログ」は2008年から始め、私が寺社を訪れて学んだこと気づいたこと、致知出版の書物を読んで心に残った言葉などを書いてきました...

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  • 2011/02/28私の思い

    土曜日は東京国立博物館の「平山郁夫と文化財保護」展、日曜日は金沢文庫の「運慶」展に行きましたが、どちらの会場でも同じ光景を目にしました。それは展示されている仏像に手を合わせる人です。三月号の大法輪は「仏像の誤解を解く」という特集で、そこに次のような文章が掲載されていました。 仏像は精神を集中し、心を浄めるための「道具」です。丁寧に扱わなければならないのはもちろんですが、仏像にあまりとらわれすぎても...

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大悲は大慈につながる

慈悲は仏教における最も大切な教えの一つです。似たような言葉に「慈愛」という言葉がありますが、何故、慈悲には「悲しみ」という字が含まれているのでしょうか。

月刊致知4月号に次の文章が掲載されていました。

 大きな悲しみというのは、大きな優しさにつながっていると私は思うんです。それを仏教では「大慈大悲」といいますが、明恵、道元、親鸞、法然…、皆そうですよ。少年の日にそういう大きな悲しみに出合っているんですね。

上記の文章を読んで、慈悲を代表する観音さまに関する以下の話を思い出しました。
 観音菩薩と勢至菩薩は菩薩になる前、人間の兄弟でした。二人は両親と生き別れ、とても貧しい生活を送っていました。

 ある時、悪い男が二人の元に来て、「おまえたちの両親はある島に住んでいるので、そこに連れて行ってやる」と言いました。二人は大喜びして、男の船に乗り込み、ある島に到着しました。二人は船から降りると、すぐに両親の名前を呼びながら島中を探し始めました。それを見た悪い男は一人船に乗り、島を離れました。

 その島は無人島で、おまけに食べる物もなく、やがて、騙されたと分かった二人は空腹と疲れで倒れてしまいました。

 弟(勢至菩薩)は、「我々はなぜ、小さい頃に両親と生き別れる、日々の食べる物にも困る、最後は人に騙されるという悲しい目に遭わなければならないのだろう」と嘆きました。

 それを聞いた兄(観音菩薩)は、「我々はそのような悲しい思いをする人々を救う菩薩になろう」と言い、それを聞いた弟はうなずき、二人は目を閉じました。

大悲は大慈につながる、海援隊の贈る言葉の歌詞にも
 人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから
とありますね。
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ブログ更新に関して

今日で地震が発生してから一週間が経ちました。余震による揺れを感じるととても不安な気持ちになります。また計画停電により、普段の生活とは異なった生活をしばらくは続けなければなりません。

しかし、弱気になるのではなく、出来ることを一生懸命がんばっていかなければと思います。

「霊場巡りの旅ブログ」は2008年から始め、私が寺社を訪れて学んだこと気づいたこと、致知出版の書物を読んで心に残った言葉などを書いてきました。

このブログを読むことを楽しみにされている方もいます。今の私はブログを更新できる状態にあり、内容も不謹慎なことを書いているつもりはありません。ですので、地震前と同じようにブログを更新すべきだという気持ちがあります。

一方で自分が今すべきことはブログを更新することなのかという気持ちもあります。

結論としてはブログを更新しようと思います。少しでも役立つ記事を書き、1ミリでもよいので、記事を読まれた方々と共々、前に進んで行ければと思います。
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仏様はどこにいらっしゃる

土曜日は東京国立博物館の「平山郁夫と文化財保護」展、日曜日は金沢文庫の「運慶」展に行きましたが、どちらの会場でも同じ光景を目にしました。それは展示されている仏像に手を合わせる人です。

三月号の大法輪は「仏像の誤解を解く」という特集で、そこに次のような文章が掲載されていました。

 仏像は精神を集中し、心を浄めるための「道具」です。丁寧に扱わなければならないのはもちろんですが、仏像にあまりとらわれすぎてもいけません。

 お寺の御本尊様のような「崇拝対象の仏像」には、しっかりと手を合わせて下さい。反対に博物館などに並んだ「美術品や資料の仏像」には礼拝する必要はありません。この区別が大事です。

 たまに展示ケースの前で合掌している人がいます。この人は仏具店や骨董市で売っている「商品の仏像」にも手を合わせているのではないかと、余計な心配をしてしまいます。とは言うものの、お寺の宝物館の場合は、私も悩むことがあります。その際は、仏像の前に香炉があるかどうかで合掌の判断をしています。

お寺で祀られてる仏像には魂を入れる開眼供養がされており、それらの仏像が博物館などに展示される際には魂抜きが行われるので、確かに上記の文章の言うとおりかもしれません。

しかし、そんな単純なものなのでしょうか。魂抜きがされている仏像に対面した時、ありがたいなと思い、手を合わせる。その行為は無駄なことなのでしょうか。私はその祈る気持ちは確実に仏様に届くと思います。

また、仏像に魂を入れる開眼供養をしても、誰もその仏像に手を合わせなければ、その仏像からは仏様はいなくなるのではないでしょうか。反対に開眼供養されていない仏像でも、多くの人か手を合わしているならば、そこに仏様は現れるのでないでしょうか。

どんな場所でも祈るところに現れ、我々を助け励まし、良い方向に導いてくれる。それが仏様です。博物館などで仏像に対面した時、手を合わせたくなったら、手を合わせればいいと思います。
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