本日は先月から続いた「運慶の学ぶ」講座の最後の日でした。金沢文庫では運慶展が昨日から始まっており、昨日は400人、今日は午前中だけで400人ぐらい訪れたそうです。やはり、人気のある展示ですね。

最後の講座は大正大学の福島弘道先生による「願成就院と浄楽寺の諸像」で、願成就院と浄楽寺における運慶仏の話がメインでしたが、最後に話された興福寺・北円堂の諸仏の話が興味深かったので、それについて書きたいと思います。

興福寺・北円堂には運慶晩年の作である弥勒仏、無著、世親像の三体が安置されています。しかし、弥勒仏を評価しない人もいるそうで、その像を評価して、「(この程度の仏像しか造れないとは)運慶も老いた」と言った人もいるそうです。

なぜそのように思うのか。それは、運慶仏といえば、躍動感のある力強く迫力のある仏像をイメージしますが、弥勒仏からはそれらが感じられないからです。

技術としては、願成就院の毘沙門天像や金剛峯寺の八大童子像のほうが北円堂像よりも上かもしれない。しかし、なぜ運慶は晩年に北円堂に安置されているような像を造ったのだろうか。

副島先生は仏像を全く知らない学生に無着像の顔を見せてどう思うかアンケートを取ったことがあるそうです。その時、一人の学生が一言「戦争帰り」と書いて、ビックリしたそうです。

戦争時には敵を殺したり、仲間が殺されたりするのを見たり、日常生活ではありえない体験をすることでしょう。運慶が生きた時代も、貴族の世から武士の世に変化する、それまでの価値観が全く変わった時代でした。また、運慶が所属する慶派も、奈良の一仏師集団から日本一の仏師集団となりました。当然、お金目当てにすり寄ってくる人もいたことでしょう。

壇ノ浦の戦いで自害した平知盛は最後に次のような言葉を残しました。
「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」(見届けるべきことはもうすべて見届けた。)

北円堂を作ったころの運慶は、知盛と同じ気持ち「見届けるべきことはもうすべて見届けた」だったかもしれません。しかし、知盛と違うのは、なおまだ先を信じていることです。無著像の眼差しには、人生において様々な経験をしてきた運慶の気持ちが表されているのかも知れません。

以上が今日の講座での話です。文章ではうまく表現出来ていないと思いますが、最後に相応しい良い内容でした。受講された人も皆、満足そうでした。

帰りに駅まで歩く時に考えましたが、仏像を見て、手の形などの外見的なことはほとんどの人が勉強すれば、分かるようになるだろうと思います。しかし、仏像の背後にある願主、仏師、当時の人々の気持ちなどは、人間として成長しなければ、分かるようにならないと思いました。
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