古代インドの地方語のパーリ語に「カタンニュー」という言葉があります。「何がなされたかを知る」という意味です。
また、中村元先生は『仏教語大辞典』で、
「恩とは、何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを、心に深く考えることである」
と解説されました。私は仏教でいう恩の基は、このカタンニューではないかと思っています。
恩という字は「因」と「心」から成り立っています。原因を知る心、つまりカタンニューです。
釈尊は、このようなたとえ話をされました。
ある金持ちが大工さんに「二階建ての家を建ててくれ」と命じた。 大工さんが一階を作り始めると、その金持ちは、「オレは一階はいらん、二階だけでいいのだ」と怒った……と。
そして釈尊は「この金持ちのことをどう思うか」と弟子たちに問いかけられたのです。
私は、それこそカタンニューではないかと思います。一階があってこそ二階があるのでしょう。そうでなければまぼろしの空中楼閣です。
以上が引用部分ですが、
恩という字は「因」と「心」から成り立っています。原因を知る心、つまりカタンニューです。
には、なるほどと思いました。また、お釈迦様の例え話も分かり易いですね。
上記のような文章を読むと、松原泰道さんが亡くなったのは本当に残念ですね。しかし、松原さんがいなくなっても、残した言葉によって学ぶことができます。このことはお釈迦様に関しても同じですね。お釈迦様ははるか昔に亡くなられていますが、現在でもその言葉から多くの人が学んでいます。
残した言葉を学ぶ人がいる限り、言葉を残した人は学ぶ人の心の中で生きているのだと思います。
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