人間が志を立てるということは、いわばローソクに火を点ずるようなものです。ローソクは、火を点けられて初めて光を放つものです。
同様にまた人間は、その志を立てて初めてその人の真価が現れるのです。志を立てない人間というものは、いかに才能ある人でも、結局は酔生夢死の徒にすぎない。
野心と志の違いについては、
野心とか大望というものは畢竟(ひっきょう)するに自己中心のものです。すなわち自分の名を高め、自己の位置を獲得することが、その根本動機となっている。
ところが真の志とは、この二度とない人生をどのように生きたら真にこの世に生まれてきた甲斐があるかということを考え、心中に常に忘れぬということでしょう。結局、最後は世のため人のためにという所がなくては真の意味で志とはいいがたい。
「立志照隅」
志を立て、自分のいる場所を照らす、換言すれば、その場になくてはならぬ人になる、ということである。もっとも身近な自分のいる場とは、自分という場に他ならない。
自分の体は自分のものと思っているが、自分で作ったものなど一つもない。体も心も全部、天地宇宙から借り受けたもので、時間がきたら返さなくてはならない。天地から借りている、この自分という場をまず照らさないと、周りなんか照らせない。一隅を照らすとは自分自身を照らすことだ。
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最初の部分の文章は、森信三さんの「修身教授録」という本の言葉だそうです。修身教授録を是非、読みたくなりました。
最後の文章の、周りを照らすにはまず自分を照らすことだというのは、その通りだと思います。
仏像も金色に光り輝いています。お釈迦様をはじめとする仏さまもまずは自分自身を照らし、その後、現在に至るまで、周囲を照らして続けてくれています。
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