月刊致知1月号の牛尾治朗さんと宇野郁夫さんの対談より。

日本で中庸というと、左と右の真ん中あたりにある中道みたいなものと思っている人が大半でしょう。だから対立するとその間を取るのが中庸だと。

しかし本来中庸というのはそんな安っぽいものではありません。ある時は世間から見ると極端に右寄りに見えることもあるし、左寄りの時もある。私が考えるのは、思考が完璧なものに辿り着いた時に初めて中庸に到達する。完璧主義の行く末が中庸なんです。

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上記を読んで、お釈迦様をすぐに思い出しました。お釈迦様は苦行によって覚りを得ようとしましたが果たせず、菩提樹の下で瞑想をすることにより、ついに悟りを得ました。
このことより、苦行することは意味がないことであると言う人もいます。私はその意見には反対で、今回、牛尾さんの言葉を読んで、お釈迦様が苦行をしたのは意味がないことではないと再認識しました。

また、私自身、仏像を拝観する際、信仰としての見方と美術品としての見方のバランスが取れた拝観ができるようになることを理想としていますが、その為には、極端に右に寄ったり、左に寄ったりすることも必要だと分かりました。
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