講演はまず薬師如来の話をされ、薬師如来は薬師経で考え出された如来であり、修行時代に人々を救うために十二の大願を立てた。十二の大願全てが現世利益の願いであり、特に七番目の除病安楽が重要である。十二神将の十二は当然、十二の大願の十二と関係あると話されました。
十二神将は薬師如来の眷属であり、同じように仏を守る存在として四天王がいますが、四天王は本尊が何であれ守りますが、十二神将は薬師如来の専属のガードマンであるという話は当たり前ですが、あまり気づかない点ですので、なるほどと思いました。
また像としても、四天王は四隅に安置されますので、左右対称などある程度決められた姿になりますが、十二神将は自由に造られているそうです。
有名な十二神将像の紹介がありました。
日本で最古の十二神将像は法隆寺金堂壁画に描かれているもので、飛鳥時代の作です。画像で紹介してくれましたが、四体が描かれていました。
新薬師寺の十二神将像は奈良時代の作で、矢が曲がっていないか確かめているポーズの像があります。このポーズは非常に人気があったようで、以降に造られた十二神将像にも数多く取り入れられています。
この他に興福寺の板彫十二神将像、広隆寺と仁和寺の十二神将像の紹介がありました。
平安時代後期に十二神将像と十二支が結びついたそうです。現在見る十二神将像には頭に十二支がありますが、初期の頃は頭だけに表せばいいという考えは定着しておらず、例えば、頭とベルトに十二支の獣が表されている東大寺の十二神将像の紹介があり、とても興味深かったです。
次に宝城坊の十二神将像と定智本の話がありました。鎌倉国宝館の展示を見られた方なら分かると思いますが、定智本に書かれた十二神将の画と宝城坊の十二神将の像は、ほぼ一対一に対応します。定智本の十二神将像は獣の皮を被ったり、魚の口から手を突っ込んでいるなど非常に特徴的で、今回の鎌倉国宝館の展示の中でも見所の一つです。
山本先生が宝城坊の十二神将像はもっと注目をされてもいい像だとおっしゃっていましたが、私もそう思います。
東京国立博物館などで所蔵している旧浄瑠璃寺の十二神将像も定智本を基にしている像が何体かあるそうです。全てが定智本を基にして造られていないのは、定智本の像が獣の皮を被るなどグロテスクなものがあるので、それが敬遠されたのではないかという話も興味深かったです。
最後は鎌倉地方の十二神将と運慶の話でした。鎌倉には後世に影響を及ぼした二組の十二神将像がありました。一つは永福寺・薬師堂にあった像であり、もう一つは大倉薬師堂の像です。どちらも運慶が造ったのでないかと考えられるそうです。
鎌倉国宝館の展示を見られた方は分かると思いますが、曹源寺の十二神将像は巳神だけが現実の人間のような顔をしており、願成就院や浄楽寺の運慶作である毘沙門天像に近い顔をしています。
あきる野市にある新開院には、神仏分離令の際に鶴岡八幡宮から移された十二神将像が安置されています。その巳神も現実の人間のような顔をしていました(十二神将像の画像が紹介されましたが、色が塗られており、ちょっと残念な姿でした。また破損もひどいそうで、鎌倉国宝館も今回の展示に出展したかったが無理だったのだろうと話されていました)。
この巳神が人間のような顔をした像が永福寺形式の特徴だと思います。
辻薬師堂の十二神将像は鎌倉前期の作で、覚園寺の像よりも古いので、大倉薬師堂の像を写したと考えられるそうです。覚園寺はその起源が大倉薬師堂なので、覚園寺の十二神将像は大倉薬師堂形式ですが、巳神は人間のような顔に繋がるものがあり、永福寺形式の影響も見られるそうです。
山本先生の講演は今回初めて聞きましたが、学者らしい(?)話し方で、よく理解でき、ますます仏像に興味が出てきました。これからも機会があれば、聴講して、学びたいです。
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