前述したように中国古典はなるべく手広く読まれることをお勧めしたい。ただし、ただ闇雲に何かよい言葉はないかと書物を開いても、そんなものは見つからない。真剣に生きていればこそ、その思いにふさわしい書物に巡り合える。
要するに、問われるのは古典から何かを学ぶのではなく、古典をどう学ぶかである。金科玉条として経文のように覚えるのではなく、時代によって変化するものとして生かして使う、という姿勢が大慈なのではなかろうか。
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致知の記事を読んでも何も感じない時があります。上述の文章を読んで、まさにただ闇雲に何かよい言葉はないかと記事を読んでいた自分に気づきました。
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