この本を知ったきっかけは平成18年11号の「浅草寺」誌において、浅草寺の貫首である清水谷孝尚さんがこの本のことを取り上げていたからです。
まず、まえがきは「命の不思議に向き合う」というタイトルで玄侑宗久さんが書かれています。そこで印象に残ったのは以下の箇所です。
・「神には、もともと善も悪も関係なかった。とにかく人知を超えた力を持った存在を神と呼んだ。いや、人知を超えた現象そのものに、神を感じたといってもいいだろう。」
・「人は長年かけて自然の闇を減らし、まるで自然や動物や人間の怖さを感じないで済むような環境を作りあげてきた。しかしどうも、自然界から減った闇は、人の心の奥に棲みついたように思える。」
私はこれらを読んで以下のように思いました。昔は地震、台風などの自然災害がなぜ起こるか分からなかったので、それらが発生するかどうかを知る為、人知を超えた力を持った神様にお伺いをし、そのような自然現象そのものに神を感じたと思います。またろうそくの光しかなかった時代は、夜になると辺り一面真っ暗になり、自然の闇の中に目に見えないものへの恐怖を感じたと思います。
しかし現代は科学が進歩して、地震や台風が起こるメカニズムは分かっていますし、それらが発生することを予測することもできます。また電気が普及し、特に都市部においては夜でも自然の闇を感じることもありません。それでは現代において、信仰は必要ないのでしょうか。
現代においては、自然界から人の心の奥に移動し棲みついた闇に対処するために信仰が必要だと思います。現代を生きる人間は皆、心に少なからず闇を持っていると思いますし、それをゼロにすることは不可能だと思います。しかし、人間は誰でも仏の心を持っています。よって信仰により仏の心を大きくすることで心に棲みついた闇を減らすことは出来ると思います。それが現代において信仰が必要な理由の一つだと思います。
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