11月7,8日とテラタビスト吉田さらささんが同行する仏都会津古刹めぐりに参加しましたので、その時の話をしばらく書きます。

会津は京都、奈良、鎌倉、平泉と並んで五大仏都に称されています。平安京以来の日本の中心であった京都、平城京のあった奈良、日本最初の武家政権のあった鎌倉、奥州藤原氏のいた平泉は仏都と呼ばれる理由がすぐに分かりますが、会津にはなぜ仏都と呼ばれる程、優れた仏像がたくさんあるのでしょうか。それは徳一という最澄、空海と並ぶ高僧が会津に来て、仏法を広めたからです。

徳一について知りたい方は磐梯町の会津仏教文化の開祖「徳一」が映像で紹介してくれるのでお薦めです。

ということで、仏都会津の古刹めぐりで最初に訪れたお寺は、徳一が東北地方で開いたお寺の中で最古の慧日寺です。但し、慧日寺は廃仏毀釈で廃寺となり、その後、恵日寺として、再興しています。

我々の乗ったバスは事故渋滞のため、かなり遅れて到着しましたが、恵日寺の方が待たれており、慧日寺の旧本坊、現在の恵日寺に案内してくれました。残念ながら予定よりかなり遅れて到着したので、恵日寺での参拝時間は予定よりも短いものとなってしまいましたが、お寺の方がいろいろ紹介してくれました。

徳一が開いた会津仏教の中心であった慧日寺は三度没落したそうです。一度目は、源平合戦の時、平家に味方したために没落、二度目は、会津に伊達政宗が責めてきた時に没落、三度目は廃仏毀釈によって没落し、廃寺となってしまったそうです。

恵日寺の山号は磐梯山ですが、会津の人にとって、磐梯山は薬師如来なのだそうです。
旧本坊、現在の恵日寺の本堂は元禄15年に造られたそうです。お堂には、中央に千手観音像、脇に金剛界と胎蔵界の大日如来像が祀られていました。その前の仏像はどの仏様か分かりませんでしたが、馬頭観音だそうです。

本堂での説明が終了した後、慧日寺跡金堂に行きました。慧日寺跡では金堂、中門が復元され、金堂は去年の4月から、中門は今年の4月から一般公開されたそうです。但し、復元は国のお金で行われたため、政教分離により、仏教施設として使うことはできないそうです。パンフレットには、史跡慧日寺跡金堂・中門と書かれてありましたが、本当に史跡です。磐梯町の観光案内にある史跡慧日寺跡が慧日寺跡について詳しく書いており、お薦めです。

金堂の次は磐梯山慧日寺資料館に行きました。その途中に龍ヶ沢湧水があり、地元の方が水を汲みに来ていました。私も水を飲みましたが、おいしい水でした。また、資料館前は紅葉がとても綺麗でした。

今回の恵日寺訪問はかなり駆け足となってしまいましたが、再度訪れて、じっくり拝観したいと思いました。






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