浅草寺誌7,8月号に武蔵野大学教授の山崎龍明さんの「歎異抄と現代社会」という記事が掲載されていました。
善人とはどういう人か、悪人とはどういう人か。記事の中では以下の二つの例を紹介していました。
田舎から出て街の仏教系高校に通っている娘が休日に田舎の家に戻りました。すると丁度、おばあさんがニワトリを絞めて出荷をする仕事をしていました。仏教系の高校に通っている娘は「おばあさん、ニワトリだって命があるじゃない。よくそんな残酷なことが平気でできるわね」と言いました。するとおばあさんは仕事の手を休め、「私だってこんな仕事はしたくない。でもこの村では一日でもこの仕事を休んだら私たちは生きていけなかったんだよ。心の中では合掌しながらやっているんだよ」と言いました。
娘は「なんということを言って、おばあさんを苦しめてしまったのか。きれいごとを言って、自分が善人、この人は悪人と思っていた。そう決めてかかっていた自分がおばあさんの一言によって根本からひるがえされました」と後日語りました。
一年間、一度も遅刻をしなかった真面目な学生が最後のレポートで以下のように書きました。
私は自分で真面目だと思います。だけど、中には不真面目な学生がいます。私はそういう学生を許すことはできません。でも、わたしの真面目さっていうのは不真面目な人をいつも心の底で軽蔑している。「あの人はいつも遅刻する。不真面目だ。遅れてきても出席にしてもらうのはずるい」と。そういう自分の真面目さっていうのは威張れるものだろうか。
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「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の部分だけを取り出して考えるから意味が分からなくなります。歎異抄に書かれている文章は先の一文だけではありません。五木寛之氏の私訳歎異抄では以下のように善人、悪人を書いています。
わたしたちはすべてが悪人なのだ。そう思えば、わが身の悪を自覚し嘆き、他力の光に心から帰依する人々こそ、仏に真っ先に救われなければならない対象であることがわかってくるだろう。おのれの悪に気づかぬ傲慢な善人でさえも往生できるのだから、まして悪人は、とあえて言うのは、そのような意味である。
つまり、悪人とは自分の中に人を軽蔑するような悪い心があることを自覚している人。善人とは自分に悪い心があるにも関わらず、そのことを自覚せず、他人を見下す人と言えるでしょう。
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