ひろさちや氏の著書で、ひろ氏は「請求書のお祈り」は他人のことが目に入らないお祈りだと書いています。私はこの意見には賛成できませんが、私が相手のことを考えないお参りの仕方だと思った出来事を以下に書きます。

それは関西地方のあるお寺を訪れた時のことです。そこのお寺では、四国八十八ヶ所霊場のお砂踏みができるようになっていました。そして私がそこを訪れた時、一人の老婦人がおり、一つのお砂踏みにかなりの時間をかけて熱心にお参りをしていました。その時、家族連れの方がこられ、子供がお砂踏みを始めました。子供ですが一ヶ所、一ヶ所、きちんとお砂の上に立ち、手を合わせていました。一ヶ所でお参りする時間はその子供の方が少ないので、しばらくたつと、その子供は老婦人に追いつきました。

子供は老婦人があるお砂の上でのお参りが終わると、そのお砂の上に移動して、お参りをし、老婦人が次のお砂の上でのお参りを終えるのをじっと待っていました。さきほども書いたように老婦人は一ヶ所にかなりの時間をかけてお参りしていたので、その子供はずいぶん待たなければなりませんでした。しびれを切らした両親がその子供に「もう行こう」と言って、その家族は別の場所へ移動しました。結局、その子供は八十八ヶ所全てのお砂踏みをすることができませんでした。

私はそれを見て、その老婦人はなぜ「どうぞ、お先に」と一言言えなかったのだろうと思いました。たとえその老婦人が「領収書のお祈り」をしていたとしても、その時の行動は、相手のことを考えないお祈りだと思います。
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