自分のことだけに目がとられて、周囲が見渡せないというのは、現代社会の病弊です。信心を持っていると思っている人も「それが自己中心になってやしないか」と思うことが大事です。
念仏ばあさんの話があります。
おばあさんはいつも「なんまいだ、なんまいだ…」と唱えながら畑仕事をやっています。「たいしたもんだ。あそこのおばあさんはいつもお念仏を唱えている。お仏壇で唱えて、野良仕事でも唱えている。お茶に呼んでやろうよ。お前、おばあさんを呼んできておくれ」
隣の畑のお嫁さんがおばあさんに「お茶でもどう?」と声をかけに行くと「なんまいだ、なんまいだ」と言いながら、自分の畑から出た小石をよその畑にポーンポーンと投げていました。
観世音菩薩に手を合わせるというのも信心だけれども、観世音菩薩を祈ることによって自らが観音様のような菩薩になっていく。これも大事な仏教の教えだし、信心というものは、その二つが一つにならないと本物の信心にはならないと思います。
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“信心を持っていると思っている人も「それが自己中心になってやしないか」と思うことが大事です”を読んで、以下の実例を思い出しました。
初詣において、たくさんの人々がお参りするために並んでいるのに、長々とお参りをする人がいます。たくさんの人が並んでいる時は、神仏への新年の挨拶のみで済ませ、お願い事も簡単に済ませるべきなのに列の先頭で延々とお願い事をして、列が進まない原因を作っています。「自分は熱心にお参りをしているので列が進まない原因を作っても問題ない」とでも思っているのでしょうか。
たくさんの人が並んでいる時、
・他人のことなど関係なく、列の先頭で長々とお願い事をする。
・他人に気遣い、列の先頭ではお願い事は手短に済ませる。
のどちらがお願い事が叶うかは言わずもがなです。
滝谷不動明王寺を訪れた時に経験したことですが、滝谷不動明王寺には西国三十三ヶ所のお砂踏みができる場所があります。私がそこを訪れた時、一箇所ずつ時間をかけて熱心にお参りしている方がいました。私はその人がお参りを終えるのは時間がかかるので後でお砂踏みをしようと思い、別の場所へ行こうとしましたが、私の後ろから来た方がお砂踏みを始めたので少し見ていました。
私の後ろから来た方も一箇所ずつ手を合わせながらお砂踏みをしていましたが、先にお砂踏みをしている方より一箇所にかける時間が短いので、しばらくすると先にお砂踏みをしている方に追いつきました。先にお砂踏みをしていた方は先に書いたように一箇所毎に熱心にお参りをしていましたので、なかなか先に進みません。結局、後から来た方は途中でお砂踏みを止め、別の場所へ行ってしまいました。先にお砂踏みをしていた方はなぜ「お先にどうぞ」と他人を思いやって、追いついた方を先にやることができないのでしょうか。
このようなことを書いても、「自分は自己中心的なお参りをしてはいないだろうか」と反省するのは元々自己中心的なお参りをしていない方で、自己中心的なお参りをしている人は「自分はそんなお参りをしていないので関係ない」と思うだけなのは残念なことです。しかし、そのような自己中心的なお参りをしている人はいずれ周りから愛想を尽かされ、自分自身を知ることになるでしょう。
“観世音菩薩に手を合わせるというのも信心だけれども、観世音菩薩を祈ることによって自らが観音様のような菩薩になっていく。これも大事な仏教の教えだし、信心というものは、その二つが一つにならないと本物の信心にはならないと思います。”という部分は、私が常日頃から思っていることと同じでしたので、強く共感を覚えました。
お寺めぐりをしている人の中にも、お寺では熱心にお参りをするが、普段の生活では首をかしげたくなるような行いをする人がいます。そのような話を聞くと「お寺めぐりで何を学んでいるのだろう」と悲しい気分になっていましたが、そのような人は念仏ばあさんのような形だけの信心なのでしょう。
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