浅草寺誌5月号に掲載されている「百歳いけらんは、うらむへき日月なり」より。

「浜までは 海女も簑着る 時雨かな」
この句は江戸中期の俳人、滝瓢水という方の句です。この方は千石船5艘もあった財産を、京や大坂で豪遊の限りをつくし、風流でなくしてしまうんですね。それで「蔵売って 日当たりのよき 牡丹かな」などという句を残している。

お母さんが亡くなった時も放蕩三昧を尽くしていて間に合わなかった。母親の墓にお参りして「さればとて 石に布団は 着せられず」などと平気でつくってしまう位の、執着を去った俳句を作ったといわれている。味わい深い人生を感じさせる秀句が多いのです。

やがて仏門に入ります。ある日、その透徹した生涯を慕って、一人の雲水が訪ねてまいります。たまたま瓢水は風邪をひいて、薬を買いに出ていて留守だった。噂を訪ねてきたけれども、「何だよ、瓢水は偉そうなことをいっても命に執着があるじゃないか。風邪位で薬を買いにいって留守にしているのか」とその雲水さんは怒って帰ってしまったんだそうです。

そして瓢水が帰ってきた。いきさつを聞いた瓢水は短冊に「浜までは…」の句を書いて、「その雲水はそこらへんにいるだろうから、急いでこれを雲水に渡してくれ」と言ったんだそうです。

海女さんですから、どっちみち海に入ればずぶ濡れになる。だから少しばかり時雨に濡れたってどうということはなかろうと思います。しかしながら、そうではないでしょう。濡れなければならない時は潔く濡れよう。しかし意味もなく濡れて体を冷やすことは、命を粗末にすることになる。一瞬であろうと体を大事にする。それで初めて海に入って仕事も完璧になすことができる。

捨てるばかりが能ではない。捨てることに執着してもならない。これが「浜までは 海女も簑着る 時雨かな」の真意ではないかと思います。
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