お釈迦様は悟りを得るために誰も体験したことがないような苦行をされましたが、ある日「苦行には意味がない」と、苦行を捨てました。そして、スジャータが作った牛乳がゆを食べて体力・気力を回復すると、菩提樹の下で坐禅を組んで瞑想に入り、やがて悟りを開きました。

この話より、苦行を完全に否定する人もいますし、「苦行をしたからこそ、お釈迦様は悟りを開いたのだ」と苦行は意味のあることだと主張する人もいます。

苦行である大峯千日回峰行を満行した塩沼さんは、月刊致知9月号の対談の中で苦行に関して、以下のように述べています。
“(お釈迦様は)苦しむだけが偉いことではない、その先にある「心の問題が大切である」ということをお諭しになったと思います。
苦行の果ては「死」です。しかし、死んでしまっては意味がない。極限まで行き、「なるほどな」と気づきを得てそこから帰ってくることに意味があるのだとお釈迦様はお示しになられたのではないでしょうか。”

後半の部分を著書「人生生涯小僧のこころ」の中で、以下のようにも述べています。
“行者とかお坊さんという役目を持った人は、お山で気がついた大自然の理をこの娑婆世界に戻ってきて実践し、皆さま方にお伝えさせていただくのが定めではなかろうかと思っています。
反対から見れば、ただその一点にのみ、行の意味があるのではないかと思っています。行とは決して苦しむためにするのではありません。”

行者さん(お坊さん)の役目は、行の中で気づいた理を実践し、それを一般の人に紹介することであるという文章に強い印象を受けました。これが大乗仏教における僧侶のあるべき姿ではないでしょうか。
それでは、大乗仏教において我々のような一般人はどうすればいいのでしょうか。塩沼さんはそのことについて述べていませんでしたが、私は行者さん(お坊さん)が気づき得て紹介してくれた理を、行者(お坊さん)が日々実践されているのと同じように、我々も実生活の中で実践することだと思います。それが仏様のような人になる一番確実な方法ではないでしょうか。
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