ご住職の話の後は、金沢文庫学芸員の瀬谷さんから浄楽寺の運慶仏の話がありました。以下、印象に残った話です。

・発願者は和田義盛である。三浦義明の孫で、実質的な三浦家の当主である。和田合戦で亡くなったが、清雲寺の毘沙門天像は和田義盛が晩年に運慶工房に造らせた像ではないか。清雲寺の毘沙門天像は和田合戦で義盛の代わりに矢を受け、また義盛のために矢を拾ったという伝説がある。

・浄楽寺の運慶仏は文治5年(1189)年3月に造立されたが、同年6月に願成就院の供養、加えて、同じ年に鶴岡八幡宮寺の五重塔の供養もあったので、この頃、運慶が東国に下向していたと考えられる。1190年から1194年は永福寺の造仏に従事していただろう。畿内で活躍していた運慶を東国に呼んだのではなく、東国で大きな仕事をし、それが鎌倉幕府に認められ、幕府の支援で京都や奈良で活躍するようになった。

「畿内で活躍していた運慶を東国に呼んだのではなく...」という箇所の印象に残りました。確かにそうですね。運慶が最初に造った円成寺の大日如来像が素晴らしいので、既に関西で活躍していたようなイメージを持ちますが、鎌倉で実績を残し、それが認められ、東大寺大仏殿などの造像を任されるようになったのだと整理が出来ました。

・なぜ本拠地「和田」ではなく、「芦名」にお寺を造ったか(浄楽寺の住所は横須賀市芦名)。仏像はお寺(現地)に来て分かることがあるが、その良い例である。富士山浄土信仰というものがあり、富士山頂に阿弥陀浄土があると考えられていた。彼岸の頃、海に沈む太陽と富士山が重なる。つまり、芦名は三浦氏が支配していた地域の中で最も富士山が綺麗に見えるところであるので、そこに浄楽寺を建てた。

「仏像はお寺(現地)に来て分かることがある」が印象に残りました。バスの行き帰りに海を見ましたが、和田義盛は海の向こうに見える富士山の極楽浄土を念じながら、運慶の阿弥陀如来像にお参りしていたのだろうなと思いました。

・浄楽寺の山号は勝長寿院である。勝長寿院は鎌倉で最初に立てられたお寺で、仏師成朝の仏像が安置されていた。浄楽寺は勝長寿院を模して造ったと考えられ、よって、仏像も願成就院像と比べて、保守的になっていると考える。

瀬谷さんの話は毎回興味深いですが、今回も為になる内容でした。
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