以下、印象に残った話です。
(仏頭の歴史)
・興福寺東金堂は過去五回消失している。平重盛による南都焼討による焼失後、山田寺から三尊像を奪取した。
・「玉葉」に、「東金堂衆らが勝手に山田寺の丈六薬師三尊像を奪い取りました。身勝手な所行で、言い表す言葉もありません」と記載がある。
→ 興福寺の総意で山田寺から略奪したと思っていましたが、一部の者の暴走であったことを知りました。
・「上宮聖徳法王帝説」により、678年12月4日に造仏が開始され、685年3月25日に完成したことが分かる。
・同書より、開基である蘇我倉山田石川麻呂が亡くなったのが649年3月25日、仏像完成が同じ3月25日なので、仏像が蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈るために造られたことが分かる。
・つまり、仏頭は造られた年月、制作理由が明確に分かる点で歴史的価値がある。同時代に制作された仏像はそれらが分からないことが多い。
(最初に置かれた場所)
・山田寺は、塔、金堂、講堂から成る。通説では、仏頭は講堂に祀られていたとされる。
・その理由は三つある。
(1)金堂が建立された年(643年)から、仏像を造り始めた年(678年)まで時間がかかりすぎている。
(2)「日本書紀」に蘇我倉山田石川麻呂は金堂の仏像に祈ってから自害したと書かれている。つまり、金堂に仏像があるならば、それより後に造り始めた仏像は講堂に祀るために造られたと考えられる。
(3)「諸寺建立次第」に、金堂、講堂に祀られていた仏像のことが書かれており、講堂の箇所に「丈六鋳仏の薬師仏が安置されていた」という記載がある。
・しかし、以下の反論が考えられる。
(1)飛鳥寺の場合も18年から21年かかっており、山田寺の場合は663年に白村江の戦、672年に壬申の乱があった為、更に遅れたと考えられる。
(2)日本書紀の記載には誤りも多い。
(3)「丈六鋳仏の薬師仏が安置されていた」の文頭に一文字スペースがあり、これは金堂、講堂の記載の後、注釈として書かれたことを意味しているのではないか。
(尊名の謎)
・678年に丈六仏を制作開始としか書かれておらず、尊名が書かれていない。
・山田寺の別名は浄土寺、蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈るために造られたので、阿弥陀如来説がある。
・しかし、以下の問題がある。
(1)法隆寺釈迦三尊像の光背に刻まれている文章に聖徳太子らの浄土往生を願う旨が書かれている。つまり、当時は、浄土イコール阿弥陀如来ではない。
(2)興福寺東金堂に現在祀られている日光菩薩の頭部には阿弥陀如来の化仏がある。これは観音菩薩の特徴である。しかし、月光菩薩にも阿弥陀如来の化仏があるので、阿弥陀如来の脇侍である観音・勢至菩薩像とは考えにくい。
・日本書紀には丈六仏と記載された記事が9つあるが、尊名は書かれていない。その中、いくつかは飛鳥大仏(釈迦如来像)のことを示している。
・「観仏三昧海経」には、仏の身長が書かれているが、丈六は釈迦のみ。つまり、当時は丈六仏といえば、釈迦如来のことを意味していたのではないか。
(まとめ)
仏頭とは
・蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈るため、678年に造像が開始され、685年に完成した。
・山田寺の金堂に祀られていた。
・丈六の釈迦如来像である。
(追加)
・展示会では深大寺の釈迦如来倚像も展示される。山田寺の仏頭も倚像説があるが、可能性は低い。
玉葉の中で九条兼実は東金堂に安置された仏像を見て満足している。平安貴族が白鳳時代の倚像を見れば、違和感を感じるはずなので、仏頭は薬師寺の薬師如来像のような体部だっただろうと考えられる。
上記の知識があれば、仏頭展を更に楽しめると思います。
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