天秀尼は豊臣秀頼の子供として生まれましたので、何不自由無い暮らしをしていたと思いますが、そうではありません。
豊臣家は秀頼に子供が出来たことを完全に隠し、妊娠が分かった時点で母親は大坂城外に移され、秀頼の子供である国松、天秀尼は城外で秘密裏に育てられました。
豊臣家が子供の存在を秘密にしたのは、徳川家に知られたくなかったからだと考えられるそうです。
国松と天秀尼は、大阪の陣の間に城内に呼び戻され、短い時間ですが、父である秀頼と一緒に生活が出来ました。
しかし、後藤又兵衛、真田幸村などが戦死し、豊臣側の敗戦が濃厚となり、国松と天秀尼は城外に逃げます。
男の国松には武士の護衛が付きましたが、天秀尼は乳母が抱えて、逃げたと言われているそうです。
国松、天秀尼とも無事に城外に逃げ延びることが出来ましたが、結局、徳川側に見つかり、国松は処刑、天秀尼は東慶寺に預けられ、尼僧となることを義務付けられます。
天秀尼は7歳で東慶寺に入りましたが、出家したのは17歳です。
この間、天秀尼は「自分は何のために生まれてきたのだろう」と迷います。
両親と離れて育てられ、ようやく会えた父・秀頼は自刃し、兄・国松も処刑されました。そして、自身は選択の余地なく、尼僧になることを決められます。
江戸時代、女性の側からは離婚が出来ませんでしたが、東慶寺は縁切り寺として、女性が東慶寺に駆け込めば離縁できることとなっていました。
天秀尼は弱い立場にあった女性を助けることにより、東慶寺に入ったのは自分ではどうにもならない運命だと思っていましたが、天命であることに気づきました。
そんな時、会津40万石の大名・加藤家で内紛が起き、筆頭家老の堀主水は高野山に、その妻・寿林は東慶寺に逃げ込みました。
高野山は堀主水を引渡し、堀主水は処刑されました。しかし、天秀尼は寿林を引き渡せば、殺されることが分かっていたので、引渡しを拒否し、大大名である加藤家と対立します。
幕府の判定の結果、加藤家は改易となり、天秀尼は寿林を守ることが出来ました。
天秀尼は寿林に阿弥陀如来像を与えましたが、その像は子孫の鈴木さんから昭和51年に東慶寺に奉納され、現在、宝物館に展示されています。
天秀尼展の案内には
「冬の寒さを知る人は誰よりも春の暖かさを感じることができる。だからどんな運命も、宿命も、絶対に変えていかなければならないのである」
と書かれています。
講演会を聴き、「豊臣家最後の姫」の作者である三池さんは天秀尼のことが本当に好きで、天秀尼の思い、考えが理解できるのだ思いました。

天秀尼のお墓です。これから東慶寺を訪れた際は必ずお参りしたいと思います。
カテゴリ
タグ