多くの方がご存知のように安倍文殊院の文殊菩薩坐像と脇侍像の合わせて四体が今年新たに国宝に指定されましたので、その記念講演と言えるものです。
(注)文殊菩薩像の脇侍は四体(善財童子、維摩居士、仏陀波利、優填王)ですので、合わせて五体ですが、維摩居士は松永弾正による焼き打ちの際、焼失して、江戸時代に造り直されましたので、国宝には指定されていません。
内容は、安倍文殊院の歴史、何故今回国宝に指定されたかというものでした。以下、印象に残ったことを書きます。
・645年に安倍氏の氏寺として、大化の改新で功績があり、左大臣となった安倍倉梯麻呂によって創建された。左大臣は右大臣、内大臣より偉く、左が上位なのは、心臓が身体の左側にあるからである。
・文殊菩薩像は以前から快慶作と分かっていたので、重要文化財に指定されていた。しかし、何故、造られたのか分からなかった。
調査の結果、墨書から像は建仁三年(1203年)10月8日に造られたことが判明。同じ年の11月に東大寺総供養が行われた。
行基は奈良の大仏造立に大きく貢献し、亡くなった後、文殊菩薩の化身と考えられた。
南都焼討によって消失した東大寺を復興した重源は行基を尊敬しており、東大寺総供養に合わせて、文殊菩薩像の制作を快慶に依頼した。
造立の理由は分かったが、何故、安倍文殊院に造ったかという謎が残る。
当時、安倍寺は吉野川(紀の川)に荘園を持っていた。しかし、そこの管理人(武士)と揉め、東大寺に相談した。その結果、東大寺の別格本山(末寺)となった。
重源は勧進のため、各地に別所を造ったが、そこの本尊は全て阿弥陀如来であった。
安倍寺はその当時、阿弥陀如来が御本尊で、奈良における真言阿弥陀信仰の中心地であった。その為、阿弥陀如来像を新たに造らず、文殊菩薩像を造立した。
しかしまだ謎が残っており、造立は1203年だが、胎内から見つかった巻物には開眼法要は1220年に行われたとあり、17年の差がある。
安倍文殊院の近くに談山神社があるが、当時は妙楽寺と言い、興福寺とは兄弟寺であるが、仲が悪かった。戦いの時、興福寺側は安倍文殊院に集まり、そこから攻撃した。
興福寺が戻った後、妙楽寺側が安倍文殊院を攻めた。このように落ち着かない状態であったので、17年の差が発生した。
・安倍文殊院は入山料を取っていない。それは、誰もがいつでも手を合わせる場所でありたいと願うからである。お堂に入って近くで文殊菩薩像を拝観する時は拝観料を取っているが、管理費としていただいており、お堂の外から文殊菩薩像を拝観するのは無料である。
今回、安倍文殊院の話を聞き、重源による東大寺再建に合わせて造られた仏像の一つということで、国宝になったという流れがよく分かり、とても為になりました。
また最後の入山料を取っていないという話もそのとおりだと感じましたので、また安倍文殊院を訪れたいなと思いました。
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