月刊致知5月号に

私たちは皆それぞれに素晴らしい天性の素質を宿して生まれてきました。夏目漱石が「夢十夜」で描いた仏師・運慶の姿は、誰もが本当の自分らしさを発揮するために取るべき理想の姿勢を表わしています。

という前書きで始まる鈴木秀子さんの話が掲載されていましたので、要約して紹介したいと思います。

夢十夜(リンク先の青空文庫で読めます)」の「第六夜」は以下のような内容です。

夢の中の「自分」は運慶が護国寺の山門で仁王像を刻んでいるという評判を聞きつけて、散歩がてらに見物に出かけます。現場には既に大勢が集まって、思い思いの感想を発しています。しかし、運慶はそれらを何とも思わない様子で黙々と作業に取り組んでいます。

その態度を眺めていた一人の若い男が
「さすがは運慶だな。眼中に我々なしだ。天下の英雄はただ仁王と我あるのみという態度だ。あっぱれだ」
と感嘆の声を上げました。

運慶の繰り広げる見事な技に感心する余り、「自分」は思わず独り言を漏らします。
「よくああ、無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」

すると、先ほどの若い男が
「なに、あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミとツチ(槌)の力で彫り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずがない」
と返します。

それを聞いた「自分」はそれなら彫刻は誰にでもできることだと考え、家に帰り、彫り始めますが、結局、上手く彫れません。そして、
「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」
という述懐で話は幕を閉じます。

上述した話の中で、仁王像はなぜたやすく彫り出すことができないのか。それは、私たち一人ひとりが求めてやまない「生きる意味」が生涯を懸けて追求すべき命題であるということを暗示しています。

人は誰しもかけがえのない一個の天性を宿して生まれてきています。私たちの生きる意味とは、自分の中の自分らしさ、たった一人、自分だけに与えられている恵みを大事に育て、その恵みに沿いながら人生を生き抜くことに他なりません。

私たちは誰もが運慶となって、自分自身の天性を解き明かしていかなければなりません。その道程においては、他者からの勝手な批評に心が波立つこともあるかもしれません。

けれども、鋭いノミで深くえぐり、ツチ(槌)を力一杯打ちつけることでしか、木の中の仁王の姿は現れません。

運慶が時代を越えて生き続けているのは、仁王像を彫ること、すなわち、自己の天性を追求することが、どの時代を生きる人間にも等しく課せられた使命であるということを象徴しています。

***

「夢十夜」は短い文章ですぐに読めますが、それを上記のように解釈できるとは思ってもいなかったので、深く印象に残りました。
カテゴリ
タグ