前半は海龍王寺のある佐保・佐紀地区のお話でした。
海龍王寺のすぐそばを佐紀路、佐保路が通っており、奈良時代はメインストリートで、幅が24メートルあったそうです。人口が少なかった奈良時代にそんな広い道路は必要だったのかと思いますが、外国に日本文化の豊かさ、文化の高さを示すための広い道路だったそうです。
竜田川の紅葉の画像を紹介し、平城京は五行説を基に造られたが、竜田山と佐保山は五行に配当されていたそうです。
平安京に都が移ってからも、藤原摂家が春日詣で来る時に佐保殿で禊をしていたので、佐保という名前は平安中期ぐらいまでは歴史の表舞台に残っていたそうです。
尼寺の興福院(こんぶいん)の紹介もあり、春は桜が綺麗なのだそうです。
進学校の一条高校が建っている場所には、奈良時代、日本で最初の公用図書館があったそうです。つまり、昔の人が勉強していた場所に高校が建っているということです。ですので、佐保路を通る時、高校があると思うだけではなく、昔の人もこの場所で勉強していたのだと思い浮かべて欲しいと話されていました。
後半は海龍王寺のお話でした。
731年に創建されたとなっていますが、飛鳥時代に毘沙門天を祀ったお堂があったそうです。南北朝時代の絵図を見せて頂きましたが、大寺院に比べて狭い境内ですが、中金堂、東金堂、西金堂があったそうです。
初代住職の玄は「大仏開眼」というドラマでは悪く描かれていました。これは、平城京では男性と女性がハッキリと分けられており、男性は比丘から、女性は比丘尼から仏教を学んでいたいたそうです。しかし、玄は平城京内道場で光明皇后に仏教を教えたりしたので、それが誤解され、悪く描かれる一因になっているそうです。
玄が龍門で大仏を見て、大仏という考えを日本にもたらしたので、中国から戻ってこなければ大仏が造られることはなかったでしょうし、同じように国分寺の考えも持って帰ってきたので、玄がいなければ、国分寺が造られることがなかったかもしれませんと話されていました。
奈良時代の五重塔があるのは海龍王寺のみで、五重塔は国宝に指定されています。我々がよく目にする大きな塔と違い、小さな塔なので、近くから見られることを考えて、造られているそうです。
現在、五重塔は西金堂に納められていますが、東金堂にも塔があり、薬師寺のように東塔、西塔があったそうです。
最後にまとめで、「身近な場所で1300年前の方々が見ていた風景を見ることができるのが奈良」という言葉が印象に残りました。大極殿から見る太陽が沈む風景は1300年前と変わらない素晴らしいものとのことなので、一度、見てみたいと思いました。
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