心遍路さんのページに吉田さらささんの自分流-寺旅の楽しみ方の報告が掲載されています。

その中で私が興味を持ったのは、以下の部分です。
“東京とその近郊をナメてはいけない
わたしたちが住む街、東京とその近郊にも、意外と面白い寺がたくさんあり、奥深い歴史があります。ただ、日本史の教科書に出てくる記述が京都を中心としているため、日本史=京都の歴史、と、皆、誤解してしまうのです。
が、関東には関東の歴史があり、奈良時代以来の神社仏閣もちゃんとあります。”

寺巡りが好きだと言う私の知り合いの中にも、京都や奈良のお寺巡りはしますが関東のお寺はほとんど巡らないという人がいます。私はそのような話を聞くと、「もったいないな」と思ってしまいます。

確かに国宝、重文クラスの建築物、仏像などを有する京都や奈良の寺院に比べると関東のお寺は見劣りがするでしょう。でもそれは、国宝、重文クラスの建築物、仏像という尺度でお寺を測った場合の話です。吉田さんの書かれているように、関東には関東の歴史があり、京都や奈良の寺院にはない良さがあります。これは関東の寺院に限らず、東北や四国など各地方の寺院にも当てはまります。各地方にある寺院の良さを体感するのもお寺めぐりの楽しみの一つだと思います。

話は少しずれますが、最近の日本は一つの尺度でしか物事を測れなくなっているのではないかと感じます。その為、その尺度でダメと判断された人は行き場を失っているような気がします。人は皆、それぞれ優れた長所を持っています。その長所を見つけ、伸ばしてあげるのが、家庭では親、学校では先生、会社では上司の役目ではないでしょうか。

観自在菩薩とは、一つの尺度にとらわれず、あらゆる尺度から物事を観ることのできる仏様なのだと思います。そのような観音様に少しでも近づきたいですね。
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