月刊致知10月号に掲載されていた曹洞宗管長である江川辰三さんの「我逢人」より。

故・松原老師は常々「険しい人生の旅路を辿るにあたって、道を踏み外すことなく、苦難に遭っても揺らぐことがないよう、自身の支えとなる杖言葉を持ったほうがよい」と仰せでしたが、この「杖言葉」という優しい響きに、尊敬する松原老師の温かい人柄がにじみ出ていると感じた私は、いつしか好んでこの言葉を使わせていただくようになりました。

「正法眼蔵」の一節に、如浄禅師から親しく指導を受ける道元禅師をして、「まのあたり先師をみる、これ人にあふなり」と記されています。

また「宝慶記」には、「道元、感涙襟を沾(ぬら)す」という個所が散見されます。はるばる海を越えて求め続けた師との出逢いを、道元禅師が喜ばれたことが直に伝わってくるかのようで、深い感動を覚えました。以来、「我逢人(我れ人にあふなり)」という言葉にすっかり魅せられ、「杖言葉」としてこの言葉を心の深くに留めるようになったのです。

「我逢人」の「人」というのは、如浄禅師そのものを指すのではなく、師が深く帰依する仏であり釈尊のことではないかと考えます。本当の師によって導かれる仏との出逢いに、ありがたさを表したのではないでしょうか。

大乗仏教の経典に「一切衆生悉有仏性(人は皆、すべて仏性を有している)」とあり、瑩山禅師も「人悉く道器なり(人は皆、すべて仏道を修する力量を備えている)」と仰せになっていることから分かるように、人間は一人の例外なく、人との出逢いを通じて仏と邂逅(かいこう)し、仏になる素質を授かっています。

人と人とが巡り合い、お互いの中にある仏を拝み合う。それこそ「我逢人」の心であり、願いでもあると信じています。人との偶然の出逢いを、表面的に捉えるのではなく、その奥にある仏や釈尊との出逢いを思えば、自然と手を合わせずにはいられないのではないでしょうか。

故・坂村真民先生は「めぐりあいのふしぎに手をあわせよう」と呼びかけておりましたが、これもまた「我逢人」に通ずるものと考えます。「めぐりあい」とはまことに「ふしぎ」ながらも、それを「偶然」というひと言で片づけてしまうことはできません。

人との「めぐりあい」には、目に見えずとも大きな「はからい」が働いており、その「はからい」に「み仏のみちびき」を感じずにはおられません。人との出逢いもまた、この「み仏のはからい、み仏のみちびき」に促されてのことに違いないと、静かに手を合わせています。
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