月刊致知8月号に掲載されている「『西郷南洲手抄言志録』を読む」より。

・憤(ふん)の一字が学問を進展させる道具のようなものである。孔子の弟子である顔淵(がんえん)が発憤して言った『(古代聖人の)舜も自分も、同じ人間ではないか』という言葉、これはまさに憤である。

・自ら聖人や賢人の道を講義したり説明したりするだけで、その道を自ら実践できない人を、口先だけの聖賢という。自分はこのことを聞いて恐れ入った。宋儒の説く道を論じたり弁じたりはするが、しかしこれを己の身に体得することができない人を、紙の上の道学という。自分はこれを聞いて再び恐れ入った。


学についてここで付言しておきたいのが、上杉鷹山の師である細井平洲の逸話です。平州が殿様から
「どのような学派から師を選ぶべきか」
と問われた時、
「人間的に素晴らしければどの学派に属していようと構いませんが、他派の悪口を言うような人は避くべきだと思う」
と答えました。

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言葉だけでそれを実践しない人はダメだというのは、致知で何度も出てくる話ですね。それだけ大切な事であり、またそれが出来ていない人が多いためだと思います。

細井平洲の逸話に関しては、私は昔、例えば、政治家はしっかりした政治が出来れば、人間性が少しぐらいおかしくてもいいのではないかと思っていました。

でも今はそうは思いません。人間性が少しぐらいおかしくても一度や二度ぐらいはしっかりした政治ができるかもしれません。しかし、長い目で見れば、人間としての根本が出来ていない者にしっかりした政治ができるわけがありません。これは政治家に限らず、全てに通じることだと思います。
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