妙心寺の塔頭である海福院は豊臣家が滅びた翌年、1616年に福島正則によって建立されました。福島家は江戸時代はじめに改易されてしまいますが、正則の娘が水無瀬家に嫁いでいたので、福島家に代わり、水無瀬家が海福院のスポンサーになったそうです。水無瀬家から町尻家が生まれ、町尻家から桜町天皇がでたので、海福院では菊の御紋を使用できるそうです。

最初の部屋である蘆狩(あしかり)の間には、襖の中にお茶の設備が隠されるように置かれていました。これは妙心寺ではお茶をあまりよしとしなかったからで、現在でも46ある塔頭で茶室を持っているのは2つぐらいだそうです。

御本尊は宝冠釈迦如来像で、正則の位牌も安置されていました。正則ゆかりの寺宝も展示してあり、貝殻を利用した陣中杯などがあり、別の部屋には賤ヶ岳の戦いで使用した槍、正則の肖像画もありました。

上間の間には、狩野探幽の猿回し図がありました。新調されたばかりのふすまに猿回しの絵を描き、戻ってきた住職に怒られたという逸話があります。というのは、そのふすまには、雲母刷り(きらずり)で桐の紋を描く予定だったからです。

このようにあまり望まれなかった猿回し図ですが、猿回し図の手本として、多くの画家の参考にされたそうです。現在は桐の紋はよく分かりますが、猿回し図は薄くなり、分かりにくい状態になっていました。

お堂を出た後、福島正則のお墓にお参りをしました。福島家の家臣の墓もあり、福島丹波守という人のお墓もありました。徳川幕府から改易を申し渡させれた時、福島家では広島城に籠り、戦おうという意見もあったそうです。それを福島丹波守はうまくまとめ、混乱なく城の明け渡しを実現させたそうです。そして、赤穂浪士で有名な大石内蔵助は福島丹波守を手本にして、赤穂城の明け渡しを混乱なく実現させたのだそうです。

海福院では福島家の話など興味深い話を聞くことができ、とても印象深い拝観となりました。


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