二宮金次郎は家の復興、三年間奉公した小田原藩家老の家政を再建させ、小田原藩主から甥が治める桜町領の再建を命じられます。
(岡田)
金次郎の言葉に「心田を開拓する」というのがあります。金次郎が農村を復興する際にまず着手したのが、その土地の神社仏閣の修理でした。
皆の生活が苦しいのだから、そのいうことは後回しでいいと普通は思うでしょう。しかし金次郎は、農村荒廃の根本理由は、人心の荒廃にあると考えていました。神仏やご先祖様を祀る神社、仏閣の荒廃はその表れであって、まずそれらを修理することで農民たちに報恩感謝の念を持たせようとしたわけです。
桜町は表高四千石で、その半分の二千石を年貢として納めなければなりませんでした。しかし農村の荒廃が著しく、実際の取り高は千石ぐらいしかない。しかし、金次郎は十年目で約束の二千石を上回る三千石まで回復させました。それでもなお村民が金次郎の指導を強く懇願したので、金次郎はさらに五年続け、桜町領は本来の四千石に回復しました。
(岡田)
金次郎は不動尊の画像を桜町の陣屋の居室に掲げていました。ある人が先生は不動尊を信じているのかと聞いた時、金次郎は自分はこの不動尊の如く固い決意をもってこの桜町に来たのだと語るのです。
「たとい事故出来、背に火の燃えつくがごときに立ち至るとも決して動かじと死を以て誓う」
「予が今日に至るは不動心の堅固一つにあり」
尊徳は不動尊の心を持って生涯をやり抜いた。まさに不動明王の化身のような人でした。
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「心田を開拓する」はお釈迦様の話にもありますが、本当に大切なことですね。二宮金次郎が農村の再建に成功したのは、まず最初に神社仏閣を修復させることにより、そこに住む人々の心田を開拓することができたからだと思います。
心田が開拓されている人は木で例えると根がしっかり地中に張られた状態になり、その後の学びも全て受け止めることができます。しかし、根がしっかりしていない状態で学んでも、木がその重さに耐えられなくなり、途中で倒れてしまいます。
心田は一度開拓すれば、それで終わりではありません。雑草など生えてきますので、継続して、開拓し続けなければなりません。人間学を学ぶことにより、心田を開拓し続けていきたいものです。
不動明王の光背は火炎光背と呼ばれ、炎が光背になっています。今まで、不動明王は憤怒の表情をしているので、「烈火のごとく怒る」という表現のように、炎は怒りを表しているとしか思っていませんでした。
しかし今回の記事を読み、炎が背後に迫っても座して動じない、つまり、「何か問題が起こっても、慌てることなく、それが解決するまで逃げずに辛抱強く対処する」という不動心をも表していることが分かりました。記事の中で、“持続心は不動心と言い換えてもいいと思うんです”とありましたが、まさにその通りです。