「明らかに究める」に思う

五木寛之氏の他力より。

「諦める」ということは、じつは「明らかに究める」ということです。物事を明らかにし、その本質を究めること。勇気を持って真実を見極め、それを認めることが、本当の「諦める」ということなのです。

たとえば、親鸞は中世で最も強く「諦める」ことに到達した人物なのです。彼は何を諦めたのか。それは、自分の欲望や煩悩から個人の自力ではとうてい解脱することはできない、ということです。

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インターネットで「諦める 明らかに究める」を検索すると、多くのサイトでそのことが好意的に紹介されています。

この言葉は老、死などの避けようとしても避けられないものに対する態度なら賛成ですが、人間の能力に対しては適切なのか疑問を持ちます。

我々一人ひとりは無限の可能性を持っています。人は自分の持っている能力を明らかに究めることなどできるのでしょうか。

自分は○○に関して明らかに究めた。そう思う心は驕りではないのでしょうか。

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情報とは

昨日の記事の続きです。五木寛之さんの本、「他力」からです。

よく情報と言います。けれど、いま流れている情報は情報ではありません。情報というのは、悲しみとか怒りといった「情(じょう)」がしっかりこもっていなければいけない。けれども、一般に言われている情報というのはたんなる数字です。

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インターネットの時代になって、情報が簡単に手に入るようになりました。様々な情報が大量に手に入るため、我々は情報の波に飲み込まれている状態かも知れません。

でも、それらの情報をよく見ると情のこもった本物の情報というのはほとんどありません。我々は本当に情報の波に飲み込まれているのでしょうか。むしろ、本物の情報に飢えているのかもしりません。

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如来と如去

五木寛之さんの「他力」という本を今、読んでいます。そこで印象に残った箇所を紹介します。

仏には「如来」と「如去」の二種類の存在があると考えます。

「如」とは真実、真理ということですから、如去とは真理の方へ一歩ずつ高みに歩いていく孤独な人。みんなはそれを尊敬し、後ろ姿を拝み、後ろからついて行こうとする。

一方、如来は到達した真理の国からこちらへやってくる仏です。ですから、如去は背を向けて導くのに対して、如来はみんなを救う訳だから、人の方を向いていなければいけない。最大限の奉仕をして、掌を差し出し、耳を傾けない人間まで抱えて、こちらを向けと言って語りかけるのが如来というものです。

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今まで「如来」という言葉の「来」という部分に注目することはありませんでしたが、「来」という言葉にも深い解釈ができることを知りました。

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