月刊致知5月号に掲載されている横田南嶺さんの「春は枝頭に在って已に十分」より。
ある男性がお釈迦様の高名な噂を聞いて是非ともお目にかかりたいと旅に出た。
まだ一度も村を出たことのないその男は、道に詳しい者たちについて出かけたが、嵐に遭ってはぐれてしまった。幸いに羊飼いの家に泊まって、厚遇を得た。明くる日に出かけようとするが、羊たちが嵐に紛れて逃げ出してしまい、羊飼いは大変な目に遭っている。すぐに仲間に追いつかねばとも思うのだが、見捨てるわけにもゆかず、羊飼いの手伝いをして羊を全て捕まえた。しかし3日が経っていた。
何とか仲間に追いつこうと旅立つが、途中で水をもらった農家の女性が、夫に先立たれ、幼い子を抱えて畑の刈り取りが出来なくて困っているという。男はその家にとどまり、全ての収穫を終えるのに三週間もかかってしまう。
もうあと少しでお釈迦様のところにたどり着こうかという時に、老夫婦が川に流されているのを発見し、男はすぐさま川に飛び込み助けて衰弱していた老夫婦をしばらく看病することになった。
こうしてあと少し、あと少しというところでいつも何かが起き、お釈迦様と出会えぬまま、各地を転々と旅し続け、二十年という歳月が過ぎた。お釈迦様が涅槃に入られるという噂が流れた。この機会を逃したら、もう二度とお釈迦様にお会いできないと思って、わずかな食料を携えて、お釈迦様が涅槃に入られる地へと急いだ。
ところが、またもやあと一息というところで、道の真ん中に一匹の怪我をした鹿が倒れているのを目にした。誰かがついていなければ死んでしまうだろうが、あたりには誰もいない。そこで自分の持っていた水と食料を全て鹿の口元に置いて立ち去ろうとした。しかし気がとがめて引き返し、一晩鹿の看病をした。
夜が明けると、鹿も少し元気になってきたので、再び出発しようとしたところ、お釈迦様はその夜に涅槃に入られたと知らされた。男は地に伏して泣き崩れた。すると、背後から声が聞こえてくるではないか。「もう私を探すことはない」と。
男が驚いて振り返ると、先程の鹿がお釈迦様の姿になり、まばゆい光に包まれて立っていた。そして、こう言った。
「もしあなたが昨晩私をここに残して立ち去っていたら、きっと私には会えなかったでしょう。あなたのこれまでの行いと共に私は常に一緒にいました。これからも私はあなたの中にいます」
鹿がお釈迦様だったのだ。傷ついた鹿を見捨ててもお釈迦様には永久に会えはしない。鹿ばかりではない。途中で出会った羊飼いも、農家の女も、川に流された老夫婦も皆お釈迦様だったのだ。男は到るところでお釈迦様に会っていたのだ。そして、目の前の困っている人に手を差しのべようという、その心こそお釈迦様の心そのものである。我を忘れて真心を込めて尽くすその人こそがお釈迦様なのだ。
どこか遠くにお釈迦様を求めても無駄骨を折るばかりだ。最も近い心の中にこそあると気がつけば、それですでに十分なのである。