私の思いのカテゴリ記事一覧

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カテゴリ:私の思い

  • 2014/11/27私の思い

    松原泰道さんの言葉で印象に残っているのが「杖言葉」です。杖を辞書で引くと「歩くときに手に持ち、地面を突いて体を支えるのに使う棒」とあります。つまり、物理的に身体を支えてくれるものです。一方、心が折れそうな時、心を支えるものは何でしょうか。松原泰道さんによると、それは言葉で、そのような、身体を精神的に支えてくれる言葉を杖言葉と呼んでいます。多摩美術大学美術館で仏像を鑑賞した時、ある種の仏像は杖言葉、...

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  • 2013/01/07私の思い

    新年になりましたので、自分自身が思い出す意味も込めて、私の寺社めぐりに対する方針を書きたいと思います。私の寺社めぐりの方針は一言でいうと「きちんと信仰心を持ってお参りし、神仏の智慧を学ぶ」です。「信仰心」と言うと持っていないと答える人が多いと思いますが、神仏を敬う気持ち、神仏に対する畏敬の念と言い換えてもよいと思います。インターネットにより、寺社めぐりのハードルは確実に下がりました。それは良いこと...

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  • 2011/06/23私の思い

    蟹満寺縁起はよく知られたお話です。蟹満寺を拝観時に頂いた案内にも縁起が書かれていました。慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。ある日、娘は村人が蟹を捕らえているのを見て、その蟹を買い求め、逃がしてやりました。また、娘の父が田を耕していると蛇が蛙を呑もうとしており、それを見て、父は「もしおまえがその蛙を放してやってくれたなら娘の婿にしよう」と言いました。すると蛇は蛙を放し、姿を消しました。その夜、...

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杖仏像

松原泰道さんの言葉で印象に残っているのが「杖言葉」です。杖を辞書で引くと「歩くときに手に持ち、地面を突いて体を支えるのに使う棒」とあります。つまり、物理的に身体を支えてくれるものです。一方、心が折れそうな時、心を支えるものは何でしょうか。松原泰道さんによると、それは言葉で、そのような、身体を精神的に支えてくれる言葉を杖言葉と呼んでいます。

多摩美術大学美術館で仏像を鑑賞した時、ある種の仏像は杖言葉、つまり、心が折れそうな時、身体を精神的に支えてくれるものだと思いました。そのような役割をする仏像を、杖仏像と呼んでもいいですね。仏像好きな方ならば、杖仏像はあると思います。私の杖仏像を挙げるならば
・三十三間堂 千手観音坐像
・大和長谷寺 十一面観音立像
・寿宝寺 千手観音立像
かなと思います。
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きちんと信仰心を持ってお参りし、神仏の智慧を学ぶ

新年になりましたので、自分自身が思い出す意味も込めて、私の寺社めぐりに対する方針を書きたいと思います。

私の寺社めぐりの方針は一言でいうと「きちんと信仰心を持ってお参りし、神仏の智慧を学ぶ」です。

「信仰心」と言うと持っていないと答える人が多いと思いますが、神仏を敬う気持ち、神仏に対する畏敬の念と言い換えてもよいと思います。
インターネットにより、寺社めぐりのハードルは確実に下がりました。それは良いことですが、同時に神仏を敬う気持ちも下がってしまったような気がします。
「最初はそれでもよい、寺社をめぐっているうちに敬う心も芽生えてくる」
という人もいますが、木に例えるならば、敬う心は根っこにあたると思います。根っこがしっかりしていない木がきちんと育つでしょうか。やはり、なるべく早く根をしっかりと張ることが大切だと思います。

「神仏の智慧を学ぶ」に関して、まず寺社めぐりをする理由を考えてみたいと思います。一番多い理由は、日常生活とは違うものを見聞きすることにより、気持ちをリフレッシュしたいからだと思います。

(1) 仕事等で精神的に疲れる。
(2) 寺社めぐりで日常とは異なるものを体験し、気分がリフレッシュする。
(3) 日常生活に戻る。

(3)の後、また(1)に戻り、以降、(1)から(3)を繰り返し続けます。これって、一種の輪廻ですね。このプチ輪廻から抜け出す方法が神仏の智慧を学ぶことだと思います。

神仏の智慧を学び、実践することにより、日常生活で精神的に疲れることが確実に減り、人生をより豊かに送ることが出来るようになります。お釈迦様は如何に人生を送るかを説かれたので、当たり前のことですね。

寺社めぐりと史跡めぐりの違いは、神仏の智慧の有無だと思います。
お釈迦様、各宗派の宗祖を始めとした高僧らが思いを込めて残したもの。それらを学ばない寺社めぐりは本当にもったいないと思います。

寺社めぐりで、神仏の智慧を学び、人生をより豊かに送ることができる。ブログを通して、そのお手伝いが少しでも出来れば、これほど嬉しいことはありません。
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蟹満寺縁起が伝えたいこと

蟹満寺縁起はよく知られたお話です。蟹満寺を拝観時に頂いた案内にも縁起が書かれていました。

慈悲深い夫婦と一人の娘が住んでいました。ある日、娘は村人が蟹を捕らえているのを見て、その蟹を買い求め、逃がしてやりました。また、娘の父が田を耕していると蛇が蛙を呑もうとしており、それを見て、父は「もしおまえがその蛙を放してやってくれたなら娘の婿にしよう」と言いました。すると蛇は蛙を放し、姿を消しました。

その夜、男が現れ、昼間の約束を守るように迫りました。父は娘の嫁入り支度を理由に三日後に来るように言いましたが、どうすることも出来ません。

約束の日が来ました。雨戸を堅く閉めて約束を守ろうとしない父娘に対して腹を立てた男は蛇の姿になって荒れ狂います。

娘がひたすら観音経を唱えていると観音様が現れました。間もなく雨戸を打つ暴音は消え、夜が明けてみると戸外には、ハサミで寸々に切られた大蛇と無数の蟹の死骸が残されていました。

親子は観音様も守護に感謝し、蟹と蛇の霊を弔う為に御堂を建て、観音様を祀りました。このお寺が蟹満寺です。

以上の話を読むと慈悲深い親子が観音様に助けられた話だという感想を持ちますが、よく考えると少し変ですね。なぜ蛇は殺されなければならなかったのでしょうか。蛇が蛙を食べるのは自然なことですし、父親が約束したから娘をもらいに来たわけなのですから。

蟹満寺縁起が伝えたいことは何なんでしょうか。回答は一つではなく、色々考えられると思います。まず父親に関しては、「嘘をつくな」だと思います。仏教には方便というものがありますが、方便はお釈迦様のような方が使うのもので、衆生が使うものではありません。

蛇に関しては「こだわるな」だと思います。確かに父親は娘をあげると言いましたが、その気がないことが分かったならば、早々と諦めるべきです。いつまでもこだわっていてはけません。

他にもいろいろ考えられると思いますが、皆さんはどう思いますか。
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